「人の価値は、その人がどれだけ得られるかではなく、どれだけ与えられるかによって測られるべきである」
――アインシュタイン
与える人は「立派」で
誰かに与える人生は
何かを与えてもらったことよりも
誰かの心にあなたの人生を刻むことができるということを聞いたことがあります。
他者に与える人が「ギバー」、受け取る人「がテイカー」
社会はギバーによって良くなり、テイカーは嫌われがちだ、という文脈で語られることが多いように思います。
確かに、誰かに与えようとする姿勢は美しい。
私の周りにもいます。
ギバーがいるから、社会は回っている。
大変納得がいきます。
私も母になって十年余りがたちました。
母になると、多くの女性は自然と「ギバー」の立場に置かれます。
子どもの世話
家族の調整
これが、自然とできてしまう。
ほとんど無意識のうちに引き受けていきます。
気がつくと、
与えること= ”自分の役割”
与え続けること= ”存在価値”
のようになってしまう。
女性は本能的に「与えること」が得意です。

さて、私がすこし前から握りしめている言葉で
「主体的に生きる」という言葉があります。
「人生を主体的に生きる」とは
一見「ギバー」と相反するような気がしませんか。
わがままに生きる、自分の思い通りに生きる。そんな意味合いに聞こえる方も多いかもしれません。
ただ私は
この「人生を主体的に生きる」という意味合いを誰しもが
忘れてはいけないと思っています。
・母だから
・仕方ないから
・みんなやっているから
「与えること」は次第に役割となり、義務となり、誰かの期待となっていきます。
与えているのに、満たされない。
誰かのために動いているのに、心が少しずつ痩せていく。
そしてある日ふと、
「どうして私ばかり」
「私は選ばされてきただけなのでは」
「こうなったのは〇〇のせいだ」
そんな思いが浮かんでくる。
これは、感謝が足りないからでも、母性が欠けているからでもありません。
主体性を感じられない時間が、長く続いた結果として、とても自然に起こる反応
だと思います。
難しいですね
ギバーで居続けることはとっても難しい。

私が思う
「主体的な時間」を具体例にあげてみます。
・めちゃくちゃお世話になった人に、お礼を言いたくて今度会いに行ってみようと計画する
・子供のためではなく、自分のために楽しいと思うことを優先してみる。
・自分のために、学び直し(習い事)を初めてみる。
・将来のためにこの資格をとってみようと、一念発起してみる
・自分の経験を踏まえて、誰か困っている人に向けて発信をしてみる。
俗に言う「小さな幸せを見つけてみよう」とは違うので、間違えないで欲しいところです。
日々に感謝、とか。今あることに幸せを、という言葉たちは時々的を得ません。
このような渇望はスマホの中にはなく、誰かの言葉の中にもなく、自分の中にしかないものと思います。
「自分の中で生まれた感情に沿って、自分の行動を選ぶ」
ことで
”主体的に時間を使えているという実感”が湧いてきます。
自分のために時間を使うことを、少しずつ取り戻していく。
その問いと感覚を手放さない限り、
人生は、
誰かの期待に応え続けることなく
誰かの物語に回収されることなく
自身のものとして、確かに刻まれていくはずです。
冒頭のアインシュタインの言葉に戻ります。
この言葉を、丸ごと受け入れようとすると
”自分は母であるにも関わらず
ギバーであるかどうか不十分であるような気がする..”
と感じてしまう人もいるはず。
私も飲み込もうとすると、どうしても喉に引っ掛かりを覚えます。
世の中には、理想の母像を作り上げた物語は
五万とありますから。
この文章を「母像」に置き換え
「どれだけ与えられるかで価値が測られる」なんて
母にとっては残酷な定義です。
「ギバーであること」と
「人生を主体的に生きること」とは
一見相反するようにも感じるのですが
同時に成立する言葉であり
自分の時間と人生の中で行き来できるものなのかもしれない。
という思いに至っています。
そういう柔軟さを握りしめておけば良いのではないかと
「私は今、自分の人生を生きている」この実感を持って
与えることを、極端に美化しないこと。
母である前に、
「主よ、主体性を持って生きよ。」
子供が巣立ってからの人生も、きっと長い。
長文、お読みいただきありがとうございました。
2026年もよろしくお願いします!
ベビコたなかみき